昭和四十九年二月二十一日 竹内平次郎二十五年祭の御挨拶
形のうえでも衿を正しますと、やはり心までシャンとする気が致します。私は、どんな些細な御祭事を奉仕させてもらう時でも、必ずお風呂を頂くことにしてるんですけれども、お風呂を頂いて体が清まる。そしてまた改まって普通着ではない着物を着る。教衣を例えばこのように着けますと、もうやはり教衣を着けた心持ちが致します。私は、こういう特に霊様のお祭など、こりゃもう普通のお祭でもそうですけれども、特に私そう思うんですけれども。一つのやはり演出だと思うですね。色々と思いを盛り上げて、今日の例えばお祭ということになり、式年のお祭ということなり、様々と心を使い、心を込めさせてもろうて、おかげを頂いて、そしてこのように衿を正してお祭の形を執らせて頂く、言わばこれは形式ですけれども、結局は有難くならして頂くために、そういう演出がいるということです。これは信心さして頂く者はいろんな場合にそれを感じます。
今日、霊様のお心をお伝えするなら、今日神様にこのお礼を申させて頂いておりましたら。昔の十円札を頂きました。猪と言われたですね。猪一枚あればどうと言ったように。そのあの和気清麿のあれが出てますが、あそこんところを先に大写しに頂いて、そして次のあの縮んだとこを頂いたんですけれども、本当に御心も平らに、清らに、今日のお祭をお受けになられた。またそれを奉仕する私共も、またそれを願っておられる皆さんの場合も、先生方ご夫婦、ご一家または御親戚の方達も、やはり衿を正してこうやっておかげを頂いておりますと、やはり「和気」ということは、和らぎの心だとこう。清麿の「清」は清らかということ。いわゆる御心も清らに、それこそ平らに、今日のお祭をお受けになられた。そこんところがね、私共は本当に有難いと思うんです。今日の霊様のお心を伝えると、そういう御心も清らに平らにお受け頂いたということ。
霊様のお喜びというか、またはこれからの姿勢というか、これは例えば、今朝から頂きす御理解の中にもありますように、信心さして頂く者はもう「一年一年有難うなってくる」と仰せられるのでありますから、私共いよいよ信心の稽古をさして頂いて本当に有難いという、例えば心が高まってくる、高められてくる。その心を以てまた次の式年祭を頂く。そのころにはもっともっと内容のある、いわゆる清らに平らに、または有難しという霊様の位も一段とお進みになるようなおかげ、御働きを頂かして頂くことだとこう思うのですけれども、結局こちらの心が平らに清らにというのが、やはり霊様にそのまま反映するということを、今日は何か痛切に感じましたですね。
お祭前に今日は安東さん、先に随分今日早く見えましたから、丁度そこで日向ぼっこをしてましたら、(笑)丁度ここへ見えられて。ほいで今日の霊様のことを、御生前のことの色々のことを聞かして頂いて、まあ思いをまた新たに霊様へ御挨拶申し上げた訳でございましたけれども、私は今も申しますように、あの昔の十円札というのは、やはり私共は猪と言うておった。こういうとこからも、今日の霊様のお心根といったようなものを、感じ取らせて頂いたような気が致しましたですね。本当に今日はおかげを頂きまして有難うございました。